沿革
1902(明治35)年頃に伝来
日本に卓球がいつ移入されたかは諸説あり定かではないが、1902(明治35)年、ヨーロッパの体育視察から帰国された東京高等師範学校教授の坪井玄道氏が、ネット、ラケット、ボール、ルールブックを持ち帰ったことによりわが国に伝わってきたとされている。
当初20年あまりは大学、高専、旧制中学校等で同好者がクラブ組織をもっていたが、その後1921(大正10)年にわが国初の卓球統轄機関として大日本卓球協会が創立され、関東と関西にそれぞれ本部を設け、対抗試合や日本選手権大会等を実施していた。
日本選手権が年に2つも3つも
しかし、この大日本卓球協会は、不幸にも長続きはしなかった。ことに内部紛争が激しく、ついに分裂して、新しく関東に全国卓球連盟が生まれた。この連盟が後に本流となって、現在の日本卓球協会に引継がれたのであるが、この他にも大日本卓球連盟や、帝国卓球協会等が作られ、分裂状態のまま日本選手権大会が同じ年に2つも3つもあるといった状態であった。
一方、これらの組織問題とは別に、競技層は年々拡大して、女子や学生層にも拡がり、1926(大正15)年の秋、第3回明治神宮体育大会に初めて卓球の参加が認められた。また1927(昭和2)年、第8回極東オリンピックの公開種目に卓球が加えられたのである。
1931(昭和6)年に日本卓球協会の前身、「日本卓球会」発足
しかしながら、その後も各卓球団体が紛争を続けたため第5回明治神宮体育大会から除外されたり、不幸な事が多かったが、1931(昭和6)年、文部省の斡旋により、種々行きがかりの多いこれらの団体の合同よりは、むしろ新団体を創立して従来のものを発展的に解消させた方が良いということになり、既存の団体もこれに同意して、ここに新たに日本卓球会が発足(7月12日)したのである。後の1937(昭和12)年に日本卓球協会と改称され、現在の日本卓球協会につながっている。
1936(昭和11)年から硬式も全日本選手権の正式種目に
これまで開催されてきた競技会(軟式)に加え、1934(昭和9)年に国際ルール(硬式)を採用し、翌年の全日本選手権にはオープン種目として行い、1936(昭和11)年からは正式種目として、国際交流の道も開かれた。以来硬式卓球(国際式)と軟式卓球(日本式)とがそれぞれ併用されていた。
また、長山泰政博士がドイツ・ミュンヘンでの神経病理学の研究を終えて、昭和5年に帰国した際、博士が滞欧中に体得された硬式ボールによるダブルス競技についてルールと共に紹介された。翌昭和6年には、大阪でオープンゲームとして「第1回日本卓球ダブルス大会」が開かれている。
1938(昭和13)年には、ハンガリーのサバドス、ケレンの両選手を招聘し、各地で試合を行なったが、対等の成績をあげている。この試合によってシェークハンドグリップや、ゴムばりラケットが関心を持たれた。続く1940(昭和15)年には、東亜大会、汎太平洋大会を開催し、共に日本が圧勝し、世界に日本卓球の実力を示したものと言えるであろう。
1941(昭和16)年12月、第二次世界大戦が始まり、戦争の進展とともに卓球を行うことが次第に窮屈になり、英語禁止のため卓球ルールも日本語に改正された。しかし枢軸国卓球大会等細々と行われていたが、1943(昭和18)年には全く停止され、終戦までは空白の状態となった。
戦後第1回は、国体が全日本選手権を兼ねる
1946(昭和21)年、長い間の戦争も終わり、ようやく残存の役員が中心となって日本卓球協会の再建にとりかかった。組織・規約も戦前のものを踏襲して少数のスタッフで辛酸をなめながら統一団体の体面を保って努力をし続けた。その秋には新生日本の再建にはスポーツが重要な役割を占めるものとして、戦前の明治神宮大会に代って日本体育協会主催の第1回国民体育大会が行われ、卓球もその種目に加えられ、復活第1回の全日本選手権大会を兼ねて行われた。また1947(昭和22)年にはマッカーサー元帥杯大会が都市対抗競技として行われ、国民もスポーツによって徐々に自信を取り戻していった。
1949(昭和24)年に国際卓連へ再加盟
1949(昭和24)年には国際卓球連盟に再加盟が承認され、国内各競技団体の国際復帰に先鞭をつけ、これによって世界選手権大会参加の機会が与えられた。同年、戦前の卓球ボール公認制度を検定制度に改定し、以後検定料収入は協会の大きな財源となった。また1951(昭和26)年には、企業の卓球の奨励のため、全日本実業団選手権大会を事業の一つに加えた。
1952(昭和27)年、初参加で世界選手権4種目に優勝
このような経過を辿っていよいよ日本卓球の真価を発揮するチャンスが訪れた。即ち1952(昭和27)年第19回世界選手権大会がインドのボンベイで開かれた機会をとらえ、日本は長い間の夢であった初参加を実現し、7種目中4種目制覇の偉業を成し遂げ世界を驚嘆させた。
その後英国のリーチ、バーグマンを招いた交歓大会には、日本は完敗し、さらに1953(昭和28)年の第2回アジア卓球選手権大会(東京)ではベトナム勢にも敗れた。
一年おいての第21回のロンドン大会の日本代表選手は、戦後育ちの選手のみによって編成されたが、立派に育った選手達は、死力を尽して3種目に優勝し、先人の偉業を継承してくれた。以後約10年間は、彼等によって世界の王座に君臨したのである。
1956(昭和31)年には、第23回世界選手権大会をわが国に招致し、参加22カ国の大会は、連日東京体育館を超満員にし、競技でも4種目を手中にして大成功を収めた。以来第30回ミュンヘン大会まで、日本は数多くのタイトルを獲得した。この間中国も第26回北京大会をきっかけに、世界のトップに踊り出し、日本の好敵手となったが、その後中国が文化大革命のため不参加となり、再び日本の独壇場の感があった。
1971(昭和46)年、第31回世界選手権大会が名古屋で開催されたのを機会に、再び中国が参加し、4種目の優勝をさらい、以後日本は低迷期に入り、逆に中国が世界を押さえて最強国となった。
“ピンポン外交”地球を走る
第31回世界選手権名古屋大会で忘れてならないことは、米中選手団がガッチリ握手した“ピンポン外交”であった。大会終了後アメリカチームが訪中するというビッグニュースは、一瞬の間に地球上をかけ巡った。球技の中でもっとも軽い白球が、世界政治史上に残る大仕事をやってのけたのである。
この大事件のきっかけを作ったのが、後藤鉀二氏(当時日本卓球協会会長・愛知工業大学学長)の、ある決断であった。名古屋で世界選手権を開催するにあたって、未だ国交のない中国を呼ぶべきか呼ばざるべきか、後藤会長は悩みに悩んだ。国内にもアジアの国々の中にも反対があった。しかし後藤会長は、世界最高の中国選手団を招聘することを決意し、森武氏(当時日本卓球協会常務理事)をともなって隠密裏に訪中、中国の大会参加を取り付けたのであった。周恩来中国首相(当時)の政治・外交手腕をクローズアップさせた事件でもあった。
1972(昭和47)年にアジア卓球連合を創設
また名古屋大会に中国参加を要請するために、日本はアジア卓球連盟を整頓する立場になり、アジア卓球連盟を脱退し、新たに中国と相携えて、1972(昭和47)年アジア卓球連合を創設し、その会長国となった。
アジア卓球連合創設後は、アジアの卓球を興隆させるため中国と共に活発なる活動を展開し、2A大会、3A大会をはじめ、アジア卓球選手権大会を隔年に開催すると共に、卓球技術を発展途上国にも指導し、卓球発展に努力した。また加盟国全部が力を合わせ、国際卓連の中においても積極的に活動し、国際卓連総会においても、アジアの力を浸透させていった。そのため国際卓連会長代理の地位も占め、世界の卓球界に確固たる基盤を作り上げたことは、大きな収穫であった。
1976(昭和51)年、創立45周年を機に財団法人化
このような歴史を経て、1976(昭和51)年7月8日文部省より設立許可を受け、日本卓球協会創立45周年記念日(7月12日)を機として永年の念願であった財団法人化を達成し、将来に向って飛躍的な発展の基盤を確立した。1980(昭和55)年には、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各国の要望に応えて第4回3A大会を開催した。
1981(昭和56)年、第36回世界選手権大会がノビサドで開催されたが、1952(昭和27)年以来保持し続けた数多くのタイトルの中で、僅かに手中にしていた男子シングルスのタイトルもこの大会で失い卓球界は大きなショックを受けた。既に10年程前から競技力はかなり低落していた事も事実であった。
以来ノビサド敗戦の原因に総点検を加え、次回の東京大会に備え王座奪還の悲願を込め、施策の改善と競技力の立て直しに全力を傾注した。
1983(昭和58)年、日本で3度目の世界選手権
そして1983(昭和58)年4月、東京で第37回世界選手権大会(日本で3回目)を開催した。この大会には世界各国から86の協会と、1,033名の役員選手が参加し、史上最高最大の規模で行われ、これを完遂し国際卓球連盟会長より最高の讃辞を受けたが、競技の方は残念ながら王座奪還の夢は果たせなかった。
協会の組織強化、機構整備を図る
1976(昭和51)年に財団法人化を果たした本会は組織強化の重要課題である全会員の登録制度を実施するに当たり、多少の抵抗もあったが乗り越えて1978(昭和53)年度に発足(昭53.6.24)。初年度は登録人員も46,329名が登録され、まずまずの出足であった。このことは本会の財政補強の一助となった。そして2010(平成22)年度には300,096名を記録し、登録制度が始って以来初めて登録会員が30万人を突破した。
また、財政基盤確立のため基本財産を昭和57年末までに1億円とすることとして名誉会員の募集を行ったり、5年間に起債7,000万円の利息を納入してもらうなど苦心をして財政確立を図った。幸い関係者の努力が実り、2009(平成21)年度には基本財産も4億円とする健全財政が確立した。
その他にも卓球に段位制を導入し、卓球の普及と活性化を図った。これには競技歴、役員歴、指導歴等を考慮して段位を定めたが、初年度第1回の発表(1981(昭56)年2月16日)には252名延べ段位965段が発表されて話題をまいた。徐々に反響を呼んで昭和61年度以降は本会主催事業の主たる全日本選手権、社会人選手権の各都道府県代表者は有段者でなければならないことになったが、このような背景もあって2021年度末の有段者は32,000名に達し、延べ段位も54,000段を突破し、これも財政補強の一助となっている。
さらに昭和43年度に施行された公認審判員制度はその後順調に発展、今や全国的にも定着し、公認レフェリー619名、上級公認審判員1,103名を数え、公認審判員に至っては全都道府県に有資格者が多数存在している。また、国際試合には国際審判員が必要となったため資格者は現在446名(詳細は「公認資格者名簿」参照)となり世界一位の国際審判員資格者を保有している。
また社会体育の普及発展に伴い指導者の要請も多く資格取得者もふえて、公認スポーツ指導者が3,223名(2022年5月30日現在)の多きに達している等、内政面の充実が一段と進展して今やスポーツ界でも有数の競技団体 に発展してきたことは慶賀に堪えない。
事業の活性化
本会の事業面はこれまでも数多く行われてきたが、さらに時代の要請に合わせるため、1977(昭和52)年に日本リーグ(実業団)を発足させ、実業団の強化が図られ、その後順調な発展をみせて、日本卓球界の技術の中心となってトップクラスのプレーヤーのほとんどが日本リーグ加盟チームの選手の時が長く続いた。その後、福原愛選手の活躍の後を追うように中学生・高校生が全日本選手権で上位に入るようになってきており、選手の世代交代が急速に進んでいる。(日本リーグは1995(平成7)年4月、日本卓球リーグ実業団連盟として独立した)
次いで家庭婦人卓球も著しく進展し、1978(昭和53)年に全国家庭婦人卓球大会(1984(昭和59)年より全国レディース卓球大会に改称)に発展させ、さらに1982(昭和57)年には卓球クラブの振興を図るため全日本クラブ卓球選手権大会を発足させた。
更に1988(昭和63)年ソウルで開かれた第24回オリンピックより卓球が正式種目に加えられたことと、卓球競技力の低迷打開の一方策として思い切って低年層の開発を目指して1980(昭和55)年にカデット(14才以下)、1981(昭和56)年にはホープス(12才以下)、1984(昭和59)年にカブ(10才以下)、1986(昭和61)年にはバンビ(8才以下)と逐年、年少者の種目をふやし、特にバンビはコートを低くして66cmの高さで行い、低年層を開発し、1986(昭和61)年度からは全日本卓球選手権大会(ホープス・カブ・バンビの部)として独立した大会にまで発展させてきた。
この他、1988(昭和63)年、卓球人口の減少傾向の食い止めや卓球の活性化の方策として高齢者層をターゲットにラージボール卓球が開発され、専用のラケット、ラバーの開発も進み全国大会はもとより海外で国際大会が開かれるまでに普及し、卓球の活性化に大いに貢献している。
また、日本卓球界のスタートになった軟式卓球も、2001(平成13)年度よりルールが38mmボールから40mmボールに変更されたことに伴い、2001(平成13)年度を最期に永い歴史にピリオドを打つこととなった。
なお、2002年4月1日に、1ゲーム11本・サービス2本交代とする劇的な日本ルール改正が実施された。(ITTFは2001年9月から実施)これにより、選手にとっては、試合の戦い方が大きく変化することとなった。
そして、2010年より日本での卓球プロリーグの設立・運営に関し検討が行われ、2017年3月、一般社団法人Tリーグを設立し2018年10月に両国国技館で日本初の卓球リーグ「Tリーグ」が開幕した。これまでは日本国内に世界レベルのリーグはなく、ドイツ、ロシアなどのプロリーグに参戦して腕に磨きをかける日本人選手が多かったが、今後は、自国のリーグで育成を強化し、あらゆる面で卓球というスポーツの価値を上げることが期待される。
また、従来卓球のラバーは赤色と黒色の2色であったが、2020年1月1日の国際卓球連盟のルール改定を受け、日本では2021年10月1日よりピンク・グリーン・ブルーの新色ラバーが発売された。新色をラバーを使う場合は片面は黒いラバーを貼ることと規定された。
日本人の国際卓球連盟会長が誕生
1987(昭和62)年、第39回世界卓球選手権大会はニューデリー(インド)で開催された。この大会の会期中に荻村伊智朗氏(当時日本卓球協会副会長)が国際卓球連盟会長に立候補し、現職だったエバンス会長(イギリス)を破って三代目の会長に当選。日本スポーツ界にとって大ニュースとなった。外来スポーツで日本人が世界の会長になったのはスポーツ史上初の快挙であった。
荻村氏は、会長就任直後から地球上をかけ巡り、世界の卓球普及に尽力した。同氏の脳裏には白球を通して世界平和が描かれていたのだろうか。1970年訪中の際に、当時の周恩来首相に“ピンポン外交”を提案したと言われている。圧巻の第一は、1991(平成3)年千葉・幕張で開催された第41回世界卓球選手権大会で、韓国と朝鮮民主主義人民共和国との統一チーム実現に成功したことである。
第二は、1994(平成6)年東京で開催された第2回地球ユース卓球選手権(満20歳以下の世界選手権)大会に、イスラエルとパレスチナ両国選手団の参加を実現させたこと。しかも開会式で両国代表が仲良く選手宣誓をする演出はマスコミでも大きく報道された。しかし、残念なことに荻村伊智朗氏は1994年12月道半ばにして病魔に倒れた。その後、木村興治氏が2005年国際卓球連盟の執行副会長に選任され、2013年5月からは前原正浩氏が執行副会長に就任し、卓球の発展と日本の地位向上に大いに貢献している。
1991年以降、日本代表選手の世界大会での活躍
1991(平成3)年世界選手権千葉大会や次のバルセロナ・オリンピックに向けて、1989(平成元)年に強化本部の機構を新たに始動。同年春の第7回アジアカップで齋藤清が男子単に優勝し、続いて第1回のジャパンオープンに17年振りに中国チームを打倒することができ、ようやく新しい芽が吹き出てきたように見えた。が、世界選手権で初めて採用したブルーのテーブルとオレンジイエローのボールを使用して話題を呼んだ千葉・幕張での第41回世界卓球選手権大会では、日本チームは残念ながら、男子13位、女子9位の史上最低の成績に終わった。
その後、女子では、2001、2004、2006、2008、2010年と5大会連続で女子団体銅メダルを獲得、男子では、2008年の世界選手権では男子団体として8年ぶりのメダルを獲得し、男女とも団体でメダル獲得をしたのは29年ぶりの快挙であった。2009年には、横浜で開催された世界選手権において、12年ぶりに男子複で岸川聖也・水谷隼組が銅メダルを獲得、2010年のモスクワ大会においても団体で男女アベック銅メダルとなった。
2014年自国開催となった世界卓球東京大会で、女子団体が32年ぶりの銀メダル、男子団体が銅メダル獲得、2015年蘇州大会で、吉村真晴・石川佳純組が混合ダブルスにおいて、38年ぶりに決勝に進んだが、惜しくも銀メダルであった。
また、2016年クアラルンプール大会では、男子団体は39年ぶりの決勝進出で銀メダル、女子団体は2014年世界卓球東京大会に続いての銀メダルを獲得。
さらに同年世界ジュニア選手権大会では、男女団体および男子シングルスで金メダル、そのほかのすべての種目でメダルを獲得するなど若い選手の活躍が目立った。翌年の2017年には、アジア選手権で平野美宇が、準々決勝から3試合中国選手に勝利し、金メダルを獲得した勢いそのままに、世界卓球デュッセルドルフ大会において、48年ぶりに女子シングスルで銅メダルを獲得、混合ダブルスでは、吉村・石川組が、見事金メダルを獲得した。同大会では、男子ダブルスで銀メダルと銅メダル、女子ダブルスで銅メダルを獲得した。
2018年の世界卓球ハルムスタッド大会は、女子団体で3大会連続銀メダルを獲得、翌2019年ブダペスト大会では前大会金メダルの吉村・石川組が惜しくも銀メダル、女子ダブルスで銀メダルと銅メダルを獲得した。
人心一新、再建なる
1995(平成7)年3月、大幅な赤字財政に陥っている危機的状況を打破するために、抜本的改革を望む機運が高まり、会長の諮問機関として刷新委員会を発足させ、人心一新、協会再建に乗り出すことなった。新執行部の努力、
全国加盟団体の協力によって、2年を経ずして赤字解消に成功、健全財政への基盤を築いた。同時に、事務局を含む協会組織・財務管理・選手強化と普及……など、運営および事業面全般にわたって改善努力を続けている。特に協会運営について、従来中央集権的色彩が強かったが、執行部にブロック理事、母体理事を登用し、全国卓球人の声が容易に反映できる仕組みに改善。卓球人の英知を結集して改革が急ピッチで進められ、1998年以降、ガラス張り経理のもとで財政の健全化が進み、堅固な体制が維持されている。
2012(平成24)年公益財団法人化
2008(平成20)年12月1日、公益法人制度関連三法の施行を機に、2012(平成24)年4月1日公益財団法人へ移行。
2019年事務局を移転
日本卓球協会事務局は日本スポーツ協会が保有していた渋谷区神南にある岸記念体育会館を長年拠点としてきたが、建物の老朽化や2013年に東京オリンピック/パラリンピックの開催が決定したこともあり、日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会が新宿区霞ヶ丘町に新設した「Japan Sport Olympic Square」に2019年7月に移転した。
新会館には、日本卓球協会を含む主な日本のスポーツ競技団体が入居するほか、1・2階に日本オリンピックミュージアムが設置されるなど、名実ともに日本スポーツの新しい総本山として位置づけられている。
オリンピック競技大会での活躍
1988(昭和63)年ソウルで行われた第24回オリンピック競技大会で初めて卓球が登場、多くのファンが注目した。
2012年のロンドンオリンピックでは長年の夢であった卓球界初のメダルとなる銀メダル獲得を女子団体(石川佳純・福原愛・平野早矢香)が成し得た。
2016年リオデジャネイロオリンピックにおいて、男子シングルスで水谷隼のシングルス種目で史上初となる銅メダル獲得を皮切りに、男子団体(水谷・丹羽孝希・吉村真晴)では銀メダル、女子団体(福原・石川・伊藤美誠)では銅メダル獲得の快挙を成し遂げた。
そして地元開催である東京2020オリンピック競技大会は、新型コロナウイルスの影響で史上初めて1年延期となった。2021年に開催された東京2020オリンピック競技大会は緊急事態宣言下での開催を強いられ、会場は無観客、批判と混乱の中、世界中から集まった選手が熱戦を繰り広げた。本大会より採用された新種目である混合ダブルス決勝戦で、日本卓球史上初の金メダルをかけて水谷・伊藤組が中国の許昕・劉詩雯組と対戦した。
第1ゲームは5-11で中国ペアがゲームをとった。世界ランキング1位のペアは安定した戦いをみせ、日本ペアを攻め立てた。その勢いのまま、第2ゲームも中国ペースに。日本ペアも食い下がるが、7‐11と連取されゲームカウント0‐2とリードされる。しかし、第3ゲームに日本ペアが反撃を開始する。一進一退の攻防から最後は伊藤が決めて11‐8とゲームを奪い返し、ゲームカウントを1‐2とする。
第4ゲームも日本ペアの勢いは止まらない。水谷のフォアハンドが決まり始め、ポイントを重ねる。最後相手の抵抗にあったが見事なコンビプレーで11‐9とゲームカウントをタイスコアに持ち込んだ。第5ゲームも日本が攻め、一時9‐8と追い上げられるも、タイムアウト明けに落ち着いたプレーをみせ、11‐9とゲームを3連取。ゲームカウント3‐2とリードに成功する。第6ゲームは中国ペアが底力を見せる。ペースを取り戻し日本ペアは反撃の糸口を見つけられないまま、6‐11と敗れてしまう。
最終ゲームは日本ペアのプレーが冴えわたる。序盤から相手を圧倒し、一時、8‐0とリード。6点を返されるも落ち着いたプレーを見せた水谷・伊藤組が11‐6で勝利し、日本卓球史上初の金メダルを獲得した。
また、女子シングルスでは伊藤が銅メダルを獲得し日本女子シングルス史上初のメダリストとなった。
一方団体戦では、女子団体(石川・伊藤・平野美宇)では準決勝まで圧巻し決勝で中国と対戦したが0-3で敗れ銀メダルを獲得。3大会連続のメダル獲得となった。
男子団体(水谷・丹羽・張本智和)では、準決勝でドイツに敗れるも3位決定戦で韓国と対戦、見事勝利し銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得となった。
新たな組織作り
2019年(令和元年)スポーツ庁が策定したスポーツ団体ガバナンスコード(以下、「ガバナンスコード」)の一つである役員等の体制整備を、2022年6月の役員改選より実施した。今までのブロック理事制度を廃止し、新たに外部理事及び女性理事を取り入れ、役員の構成等における多様性の確保を図る。
さらに、本会創立100周年の2031年までの間、ガバナンスコードに盛り込まれている中長期事業計画を基本とし、日々の業務遂行に励む。
2020年以降、日本代表選手の世界大会での活躍
2020年、世界卓球釜山大会は新型コロナウイルスの世界的感染拡大を受け中止となり、翌2021年に開催された世界卓球ヒューストン大会は男子ダブルス銅メダル、女子ダブルス銀メダル、混合ダブルス銀メダルを獲得し今後も日本選手の世界での活躍に期待がかかる。
組織図
2024年6月23日現在