2021年に創立90周年を迎えた日本卓球協会は全国47都道府県に点在する協会および連盟、そして36万人に迫る登録会員(2019年度)によって成り立っています。そこで各協会・連盟の安定的な運営や大会運営、練習環境の整備、若年層の育成、シニア層を含む生涯スポーツの普及まで、長年、卓球振興に貢献してこられた功労者の皆さまをご紹介するとともに、お寄せいただいた100周年につながる提言をお伝えして参ります。
(インタビュアー:高樹ミナ/スポーツライター)
振り返ると楽しかった! 卓球を通じた稀有な経験
峯村威男さん
長野市卓球協会会長
この度、日本卓球協会の功労者に選出していただき、大変嬉しく感じるとともに身の引き締まる思いでおります。
私と卓球との出会いは中学2年生の頃でした。もともと野球をやっていてピッチャーだったのですが、体がそれほど大きくなかったこともあり限界を感じておりました。そんなとき、たまたまご近所に卓球のインターハイ選手がいたことで卓球を知り、体の大きさがさほど影響しないことや、自分で試合をイメージできることに魅力を感じ、その後は卓球に没頭しました。
社会人になってからは、脱サラして卓球専門店、卓球場を経営しつつ、長野市卓球協会の一員として、今も長野市卓球協会の活動に携わっております。
振り返ると卓球を通じ、実にさまざまな経験をさせていただきました。特に思い出深いのは全日本クラブ卓球選手権大会です。この大会は荻村伊智朗さんの御尽力によって始まったもので、昭和56年(1981年)に長野県戸倉町(現在の千曲市)で第1回大会が開催され、第2回も引き続き戸倉町、第3回が松本市など、他でも長野県内で開催されました。
我が長野でも第9、10回大会を開催しました。その後1998年に長野冬季オリンピックが長野市で開かれたこともあり、日本卓球協会と相談して、2001年の第20回大会まで4年連続でまた開催させていただきました。最初は100名前後と小規模で始まった大会も、第6回からはセブンイレブンという大きな冠がつき「セブンイレブンカップ」と呼ばれるようになりました。当時、セブンイレブン・ジャパンの会長でいらした鈴木敏文さんが、たまたま長野県坂城町ご出身というご縁で協力して下さったのです。
そのおかげで出場者が3000名を超える大きな大会に成長してきました。
長野オリンピックのときに建設されたスケートリンクのエムウェーブという大きな会場で開催し、長野市内の体育館から約80台の卓球台をかき集め、それまで4~5日かかっていた大会日程を3日間に短縮しました。クラブチームは全国から来られますので、日程の短縮により滞在費が削減できたと感謝されたことを覚えています。
また選手の足腰の負担を考え、広い会場のコンクリート床に卓球マットを敷いたり、事務局にてホテル、旅館等の斡旋をし、手数料を頂いて財源に充ててきました。長野県、長野市の行政より補助金を頂く為に、シンクタンクに依頼し、大会開催の経済効果を算出してもらいました。その数値が新聞に掲載され、話題になったことが今でも脳裏に浮かんできます。当時のさまざまな苦労が今では良い思い出となっています。
1991年に幕張で開催された世界選手権も深く記憶に刻まれています。この大会で初めて韓国と北朝鮮が「統一チームコリア」として参加することとなり、当時、国際卓球連盟の会長だった荻村さんからお願いされ、大会前の1週間、長野市で統一チームコリアの事前合宿を受け入れたのですが、テロの危険に備え県警と協力して厳戒態勢を敷くなど、その調整は大変でした。大会本番では統一チームコリアが、女子団体で大会9連覇を狙う中国を破り優勝するという最高の結果に終わり、合宿を受け入れた長野市関係者一同、歓喜したことを今でも鮮明に覚えています。
合宿は当初、選手間でギクシャクした雰囲気が感じられましたけれども、合宿後半では笑顔が増え、和気あいあいとした雰囲気になっていました。そして、この統一チームコリアの話は後に映画にもなりました。このような歴史的な経験が出来たのは卓球に携わっていたおかげと感謝しています。
スポーツは、オリンピック・パラリンピックや世界選手権で活躍するトップ選手に注目が集まる一方、スポーツを通じた若者の育成や地域振興など、さまざまな魅力や利点があります。長野県では長野冬季オリンピックのボランティアの方々が今でも活動されているなど、スポーツ文化が根づいていると感じます。私も卓球を通じ、今後もスポーツ振興に少しでも貢献できれば幸いです。